まだ社会学に関する記事が無かったのでエッセイを一つ。
「3年B組金八先生」で上戸彩が性同一性障害を抱える鶴本直を演じてから、トランスジェンダーが話題になるようになった。ドラマ以降、鶴本直のモデルである虎井まさ衛氏ら当事者達が運動したり、性同一性障害に関連して、新聞記事やテレビの特集で多く取り上げられるようになった。
その結果、公式な性別再判定手術(Sex Reassignment Surgery, SRS=性転換手術)や戸籍の変更が可能になった。今まで非公式の形で手術を行ったり、海外で手術したりするなど、性転換手術が公式の治療だと認知されなかったり、その後も社会的な扱いに関する議論がなされなかったりして、今よりも以前の方がひどい状態だったのだろう。
だが、今、メディアで認知され、戸籍の変更も行えるようになって、これでめでたし、めでたし、と言えるのだろうか?
性同一性障害に関しては、まだ議論し尽くしていない点がまだまだある。例えば、性役割、つまり男はこうしなさい、女はこうしなさい、といった規範だ。トランスジェンダーの人たちは、子どもの頃から周りから押し付けられてきた性役割を拒否し、マイノリティ(社会的少数派)として自由を求め戦っているのだから、常識や偏見にとらわれずに自分も他者も自分らしく生きればよいと考えているか?
個人差もあり十把一絡げに言えないのだろうが、多くの人達はNOだろう。
なぜか?
例えば男性から女性になりたい人を考えてみよう。
彼らはまず、スカートをはきたがる。女性でもスカートを全くはかない人も中にはいるのにだ。「女性はスカートをはくものだ」という性役割規範が内在化している。
髪の毛や化粧も、髪の毛が短くてほとんど化粧をしない人もいるにも関わらず髪の毛を伸ばして化粧をする人が多い。これも女性はこういうものだという規範を前提にしないと存在し得ない考え方だ。
このように、周りから押し付けられた性役割規範を拒否して自由に生きる事を目指しているとは必ずしも言えず、自分の体とは異性の規範が内在しているに過ぎない。
加えて、性別二分法を必ずしも完全否定していないことも留意すべきだろう。
一般人の常識で言えば、世の中には2種類の人間しかいないことになっている。男らしさを身に付けて、男の体をし、女性を好む男性と、女らしさを身につけて、女の体をし、男性を好む女性だ。
ただ、世の中には同性愛の人もいれば、性同一性障害の人もいる。また、生物学的に男女の中間の体に生まれた半陰陽(インターセックス、
Intersex)の人もいる。
このように、多くの人間が性役割という作られたものに縛られ、生物学的、文化的にさまざまな性の人がいるにも関わらず、戸籍を「変更」するという、人間には男女2種類しかいなくて、性同一性障害であれば片方からもう片方へと「変更」するという常識の延長線上でしかない考え方に当事者を含めて多くの人が何も問題が無いように語る。
誤解のないように言っておくが、私は彼らには自分のアイデンティティに沿った生き方をすることは全く間違っていないと考えている。ただ、性同一性障害に関する議論が、メディアも一般人も当事者も一人歩きをさせるようにしてしまっているのではないかと考えている。
そもそも、法的文化的な性別二分法そのものがステレオタイプや偏見、差別の温床になっているのに、それを排そうとしないことは何の改革にもつながらない。トランスジェンダーの当事者も、例えば男性から女性に性転換して、見た目も身分上も女性になったとしても、今度は「お前は女だから無能だ」といったような偏見の対象になっていいのか。
性別二分法が排され、一切のステレオタイプ、偏見、差別がなくなれば、性同一性障害は、少なくとも個々人のライフスタイルの点からすれば完全に無効化される。性転換手術も整形手術と同義になる。単に自分がこうなりたいという肉体へ、いかに近づくかのみが問題となる。
ゆえに現状は常識にとらわれた人々の妥協の産物であり、集合的に見ると、個々人のライフスタイルが最大限自由化した状態にはなり得ないものだ。
ジェンダー論は弱者が一つの集団として結束して、とりあえず権利拡張をしておけばよいというパラダイムから脱し、個々人として個人的にも、社会全体として集合的にも損害を最小化する社会システムを目指すモデル作りを目指すべきである。
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英語学習法のアドバイスをしています
「3年B組金八先生」で上戸彩が性同一性障害を抱える鶴本直を演じてから、トランスジェンダーが話題になるようになった。ドラマ以降、鶴本直のモデルである虎井まさ衛氏ら当事者達が運動したり、性同一性障害に関連して、新聞記事やテレビの特集で多く取り上げられるようになった。
その結果、公式な性別再判定手術(Sex Reassignment Surgery, SRS=性転換手術)や戸籍の変更が可能になった。今まで非公式の形で手術を行ったり、海外で手術したりするなど、性転換手術が公式の治療だと認知されなかったり、その後も社会的な扱いに関する議論がなされなかったりして、今よりも以前の方がひどい状態だったのだろう。
だが、今、メディアで認知され、戸籍の変更も行えるようになって、これでめでたし、めでたし、と言えるのだろうか?
性同一性障害に関しては、まだ議論し尽くしていない点がまだまだある。例えば、性役割、つまり男はこうしなさい、女はこうしなさい、といった規範だ。トランスジェンダーの人たちは、子どもの頃から周りから押し付けられてきた性役割を拒否し、マイノリティ(社会的少数派)として自由を求め戦っているのだから、常識や偏見にとらわれずに自分も他者も自分らしく生きればよいと考えているか?
個人差もあり十把一絡げに言えないのだろうが、多くの人達はNOだろう。
なぜか?
例えば男性から女性になりたい人を考えてみよう。
彼らはまず、スカートをはきたがる。女性でもスカートを全くはかない人も中にはいるのにだ。「女性はスカートをはくものだ」という性役割規範が内在化している。
髪の毛や化粧も、髪の毛が短くてほとんど化粧をしない人もいるにも関わらず髪の毛を伸ばして化粧をする人が多い。これも女性はこういうものだという規範を前提にしないと存在し得ない考え方だ。
このように、周りから押し付けられた性役割規範を拒否して自由に生きる事を目指しているとは必ずしも言えず、自分の体とは異性の規範が内在しているに過ぎない。
加えて、性別二分法を必ずしも完全否定していないことも留意すべきだろう。
一般人の常識で言えば、世の中には2種類の人間しかいないことになっている。男らしさを身に付けて、男の体をし、女性を好む男性と、女らしさを身につけて、女の体をし、男性を好む女性だ。
ただ、世の中には同性愛の人もいれば、性同一性障害の人もいる。また、生物学的に男女の中間の体に生まれた半陰陽(インターセックス、
Intersex)の人もいる。
このように、多くの人間が性役割という作られたものに縛られ、生物学的、文化的にさまざまな性の人がいるにも関わらず、戸籍を「変更」するという、人間には男女2種類しかいなくて、性同一性障害であれば片方からもう片方へと「変更」するという常識の延長線上でしかない考え方に当事者を含めて多くの人が何も問題が無いように語る。
誤解のないように言っておくが、私は彼らには自分のアイデンティティに沿った生き方をすることは全く間違っていないと考えている。ただ、性同一性障害に関する議論が、メディアも一般人も当事者も一人歩きをさせるようにしてしまっているのではないかと考えている。
そもそも、法的文化的な性別二分法そのものがステレオタイプや偏見、差別の温床になっているのに、それを排そうとしないことは何の改革にもつながらない。トランスジェンダーの当事者も、例えば男性から女性に性転換して、見た目も身分上も女性になったとしても、今度は「お前は女だから無能だ」といったような偏見の対象になっていいのか。
性別二分法が排され、一切のステレオタイプ、偏見、差別がなくなれば、性同一性障害は、少なくとも個々人のライフスタイルの点からすれば完全に無効化される。性転換手術も整形手術と同義になる。単に自分がこうなりたいという肉体へ、いかに近づくかのみが問題となる。
ゆえに現状は常識にとらわれた人々の妥協の産物であり、集合的に見ると、個々人のライフスタイルが最大限自由化した状態にはなり得ないものだ。
ジェンダー論は弱者が一つの集団として結束して、とりあえず権利拡張をしておけばよいというパラダイムから脱し、個々人として個人的にも、社会全体として集合的にも損害を最小化する社会システムを目指すモデル作りを目指すべきである。
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